大正十四年(1925年)の晩秋(11月21日)、鳴兎子が火に包まれた。  原因は判っていない。金物屋の主人の寝煙草とも、心ない浮浪者の放火とも、夜勤労務者の焚き火が飛び火したとも言われている。ともかく、陽はとうに沈み、雲ひとつない夜空にぞっとするほど艶やかな満月が煌々と照っていた頃、端緒となる火種が息吹をあげたことだけは確かである。  秋とはいえ、この日は真冬並みの冷え込みと乾燥した空気、そして強い北風まで吹きすさぶ始末で、人々は、夜更かしなどして風邪でもひいてはたまらぬと、いつもの夜よりも早くに床へ就いたものだった。  どこの家でも皆ぐっすりと寝静まった深夜のことである。炎が燃え広がり町を襲う怪物へと成長を遂げるさまを見たという者はいない。気がついたときにはもう、自分の寝床が紅蓮に囲まれていたのだ。  逃げ遅れた者多数。目を覚ますことなく煙の中に息絶えた者も少なくない。  内陸部の山村が、ようやく町と呼べるほどに発展を遂げた矢先の出来事である。区画整理の計画など、はなから立てているはずもなく、狭い区間に幾つもの木造建築がひしめき合い、寄り添うように隣接していた。建物の間に自然とできた隙間が路地と呼ばれ、比較的幅のある路地が道路と呼ばれていた。  このような造りの町が災害に脆いことは必然であった。瞬く間に炎は屋根から屋根へと燃え移り、折からの北風に煽られて鳴兎子を覆った。  ひと晩のうちに鳴兎子のほぼ半分が焼失。死者・行方不明者は人口のおよそ三分の一に及んだ。  鳴兎子に暮らす人々は絶望に打ちひしがれた。自分の命以外の全てを失った者たちが、何人も路上に溢れ出た。一向に鎮まる様子のない炎はとてつもない熱さを誇っているのに、吹きつける風は憎々しいほどに冷たく、身も心も凍えさせる。  だが、本当の悲劇はここから始まった。  当時の鳴兎子には、被差別部落が隣接していた。隣接とはいえ紛れもなくそれは町の一部であり、言うなれば「部落街」とでも称される共同体であった。  彼らは皆、鳴兎子の人々の好まぬ職業に従事していた。清掃業、屠殺業、とりわけ危険で不衛生な建設業等々。物乞いに従事する者も少なくなかった。  中でも最も多かったのが、見せ物小屋の演者である。無論中には大道芸みたような特技を有している者もいたが、そういったことができずとも、畸型でさえあれば食い扶持には困らない。先天的な畸型者はもちろん、後天的な「つくられた」畸型も多かったという。手足の切断された部落民――しかも彼ら自身がそう望んだと言われている――が何十人もいっぺんに見せ物小屋の舞台を埋め尽くすさまは、怪奇と猟奇を混濁し、そこにえもいわれぬ背徳と耽美を掛け合わせたかのごとき、あらゆる出し物の極北に位置する娯楽をなしたと言えよう。  彼らは独特の宗教を信仰していた。当時の鳴兎子にそれを研究していた者はおらず、残念ながら公式な記録は一切残っていない。手掛かりとなるのは、今もなお存命の古老たちから聞き出せる断片的な記憶の残滓、そして数少ない当時の町民の手記のみである。  それらの情報によれば、なんでも、まだあどけなさの残る無垢な少女が彼らの宗教的指導者つまり教祖として、共同体の頂点に君臨していたという。彼女が大衆の面前に登場することはなく、これはあくまで風の噂としての情報ではある。  噂というものはとんでもない尾ひれがつき、しかも信じられない馬鹿馬鹿しさにも関わらずまことしやかに囁かれるものである。彼女の姿を見た鳴兎子の者が何人かいたというらしいが、その者たちは悉く消息を絶っており、どうやら部落の最奥、その教祖様のいるという聖堂へと連れていかれ、恐ろしい邪教の生贄に具されていると言われていたという。中には、連れていかれるのではなく、くだんの鬼女に拐かされて自ら出向き、そこで喰らわれているのだと語る者もあったとか。当然のことながらこれらの噂に証拠などなく、にも関わらず、当時の鳴兎子に住む人のほとんどが信じて疑わなかったというのだから恐ろしいものである。  はじめのうちは行方不明になった者など数えるほどしかいなかったが、日を重ねるうちに数は増し、しかも消えたのは男ばかりだというから――恐らく、噂に高い可憐な少女をひと目見ようといった動機ゆえんであろう――いよいよ噂は真実味を増し、鳴兎子の人々は被差別部落民と疎遠になり、あからさまに蔑視し、見たら石を投じる子供まで出る始末だった。  部落民の労働者を雇う者は数を減じ、しまいにはひとりもいなくなった。彼らの見せ物小屋に足を向ける者など、それ以前にいなくなってしまっていた。  そもそも日本人とは、排他的感情に関しては比類なき団結力を発揮する民族である。反部落の気概はいやがおうにも高まり、鳴兎子から追い出そうという動きまで現れ始めた。血気盛んな若者が集団で暴力行為を振るうことも珍しくなくなった。  そんな折の、鳴兎子大火であった。  最初に誰が言い出したのか。これも判っていない。あるいは、皆が同時に言い出したのかもしれない。  ――部落民が火つけをおこなうのを見た。(いつ、どこで、誰が、といった事項を問い質す者はひとりとしていなかった)  ――部落民は我々を焼き殺して全滅させようとしている。(先に暴力を振るったのはどちらか。それに、彼らは今まで暴力を振るったことがあったのか)  ――その証拠に、部落民の集落はこの大火を免れているではないか。(実際には、集落が町外れであったために飛び火しなかったということは言うまでもない)  論理的思考など発生する余地はなかった。鳴兎子の人々にとって重要なことは、部落民を根絶やしにしなければならないという強迫観念であった。無論それは、勝手で一方的な決めつけと予断から生じる差別感情が根底にある、どうしようもないほどにくだらない、しかし強烈な、集団意識の発露であった。  燃えさかる鳴兎子を背に、暴徒の行進は集落へと迫った。手には棍棒、包丁、鎌、鍬、思い思いの得物を持って。  詳細を書くことは避けるが、夜明けを迎える前に部落民の虐殺は終了した。寝込みを襲われたうえに、多勢に無勢である。しかも意気込みからして違う。殺意を持つ者と持たぬ者の差。しかも部落民には見せ物小屋の畸型が何十人といる。手足がない彼らに、いったいどんな抵抗の手段があろうか。逃げることも身を庇うこともできないまま、切り刻まれる肉塊と化すしかなかった。  女性、子供、老人の別なく、見つけたそばから殺していった。逃げれば追いかけ、先回りし、囲み、いたぶり、殺した。泣き叫ぶ子供を火に投じた。そのあとで母親をリンチした。部落民に、味方となってくれる者はいなかった。法を順守するべき駐在までもが、暴徒と一緒になって彼らを追い回した。  さて、気になるのが部落民の教祖である少女の顛末である。  彼女もまた、混乱の中で命を絶ったものと予想されるが、この夜に彼女の姿を見たという者はひとりもいない。そもそもそんな少女など最初からいなかったのかもしれない。かといって、自分たちの噂の誤りに気づくほど、鳴兎子の者たちは冷静ではなかったのだが。  この夜、部落民のほぼ全てが殺された。彼らは皆焼かれ、火事で焼死したことにされた。全員で口裏を合わせてしまえば、犯罪など起こらない。  からくも生き延びた部落民たちが何人か、北の山中へと逃げ込む姿が目撃されている。翌朝に徹底的な山狩りがおこなわれたが、彼らの行方は杳として知れなかった。どうやら、妻守山の奥地に広がる盆地内の樹海へと逃げ込んだものと思われる。足を踏み入れた者が確実に迷い、のたれ死ぬとされている魔の森である。鳴兎子の者が「人喰いの森」と称して恐れている場所である。それ以上捜索を続けることは危険であり、また、ここに入ったからには放っておいても部落民たちは息絶えるだろうという憶測も相まって、追跡は打ち切られることとなった。  そして妻守山の人喰いの森は、これまで以上に――物理的な意味のみならず、精神的な意味においても――禁忌とされ、足を踏み入れるどころか、近づく者さえいなくなったという。  やがて時は経ち、鳴兎子の大火自体が人々の記憶から消えゆき、陰惨な過去を知る者も少なくなった今でも、人喰いの森だけは――理由は忘れ去られているとしても――決して入ってはならない魔の森として、鳴兎子の人々に受け伝え続けられているのである。  鳴兎子の人々には、こういった共通意識がある。皆でひた隠しにしてきた暗部である。秘密の共有は横の繋がりを強固なものとし、排他性を増強し、保守的な思考を生み出す。鳴兎子の老人たちがとりわけ排他的で保守的である理由は、ここから生じている。